修道中学6組会『第9回プチ修学旅行』を終えて

―最早プチとは言えない大人の修学旅行『近畿地方の旅』―

 今を去ること高校2年のある晴れた午後、今も修道学園に残る唯一の施設『25mプール』の小高い芝の土手の上にすっくと立った一人の学生がいた。
 彼は集まった高校2年生を前にして大演説をぶった。彼の名は鈴川通久、通称『貫一』。中国配電の中興の祖である彼のおじいさんの名を採ったあだ名であった。
 「我々高校生も中学時代と同じように修学旅行の実施の権利を要求する!」と言う内容で、まるで後の全学連のように声を張り上げて、あどけない聴衆を前に生声で演説をぶった。
 その大演説に机上の勉学よりも実学の方を重んじる我々素直な高校生はその場でこぞって賛成の意を表明した。
 かくて、生徒会を動かし、ひいては教職員を動かし、開闢以来の高校での修学旅行が実現した。
 修道中学で広島女学院と一緒に北九州一周の修学旅行に行ったのも我々学年が最初で最後。修道高校に商業科が無くなったのも我々の学年から。更に高校1年の時にはあの有名な『売春禁止法』が発令された。多感な少年たちはかくも激動の時代を生き抜いて来たのであった。
 高校での修学旅行の行く先は『近畿地方』に決定した。この度その時の資料が残っていないかどうか調べてもらうように事務局にお願いしたところ、その旅行が急遽決定したこともあって、学校の資料室には一切記録が残されていなかった。
 致し方なく、当時その修学旅行に参加した同級生に問い質してみることにした。その結果、人間の記憶力というものがいかにいい加減なものであるかということが判明した。
 おそらく3泊4日くらいの修学旅行であった筈であるが、当時参加した生徒の頭の中には鮮明な記憶というものが殆んど残っていなかった。
 そこで当時のアルバムを紐解いてみることにした。驚くべきことに、修学旅行の訪問先はあらかたの関西の著名な観光地を網羅していたのであった。
 その内容は行き着く間もない観光バスの強行軍の旅であった。すなわち、大阪城天守閣、法隆寺五重塔、薬師寺三重塔、東大寺大仏殿、奈良公園、吉野山、平等院、比叡山山頂より琵琶湖及び京都府内を望み、金閣寺、銀閣寺、嵐山、太秦松竹撮影所(ここで『二等兵物語』の花菱アチャコ氏を垣間見る)、清水寺と広く薄くという趣旨が充分に窺える修道らしき急ぎ旅であった。
 一方、生徒と言えば、夜中の遅くまで枕投げをして、ろくろく睡眠をとらず、バスの中では夜の乱行がたたって、「うつらうつら」の白河夜船。ほとんどバスガールの顔しか覚えていない体たらく。
 かくて、大学受験地獄を直前にした高校時代の修学旅行はなんの感激も無く、なんの支障も無く無事終了したのでありました。
 さて、今年度74歳を迎える節度ある我々熟年生の今回の『プチ修学旅行』ではとてもあんな若い時のような強行軍なぞ思いも及びません。
 今回の『プチ修学旅行』のコンセプトは桜の時期の日本一豪勢な『お花見』を体験するというものであった。厳選した結果、決定したのが奈良の『吉野山』と京都の『醍醐寺』であった。
 奈良の観光協会に問い合わせたところ、吉野の桜の見頃は3週間目と言う。素直を絵に描いたような我々修道生はその言葉を信じて、2015年4月14日(火)、15日(水)、16日(木)の2泊3日を討ち入りの日と決定した。
 そこで、関西方面に滞在する中学時代の同級生5人と、鳥取からバスでホテルに駆けつけて夕刻ホテルで合流する1人の同級生に我々6人の広島組の合わせて12人全員に3日間の全スケジュールとそれぞれの携帯電話番号を5枚の文書にして各員に郵送しておいた。
 尚、旅の携行必需品は携帯電話番号と旅のスケジュールが書き込まれた用紙。
これはもし迷子になった場合即電話連絡をするためである。年令、身分を証明する証書(免許書等)。これは身体障害者の場合、本人と付き添いがタダになる場合があることと、70歳以上は入場無料という特典がある場合があることを見込んでの準備である。タオル1枚。何時温泉に入ることに衆議一決するか判らないため。替えの下着。お漏らし、あるいは、美女(舞子等)のお誘いのため。ハイキングシューズ。舐めてはいけない。もともと吉野は修験者が辿る険峻なコースなのである。かくて、すべての準備に怠りないよう心掛けた。
 14日(火)。例によって、8人乗りのワゴン車『アルファード』に広島から6人が乗り込んで朝8時に出発した。
 初日に伊丹空港において、中学時代の同級生に58年ぶりに会って旧交を温めるという感涙のシーンを用意した。正に中学卒業以来の邂逅である。手土産も『やまだ屋の桐葉果』、モンキーバナナ1房10本、カープ坊やのアサヒビール1缶、もらい物の駄菓子2袋のお裾分けというと大盤振る舞いである。これを手始めとして、午後2時からは『天満天神繁昌亭』(1人2000円)で落語を堪能するという緩い修学旅行の行程からスタートした。

1-1DSC_0013.JPG 勿論、夕刻からは宴会の部が開始される。大阪に滞在する3人と鳥取から合流した1人を加えて、総勢10人が60階建て、高さ300メートルある現在日本で1番高いビル『あべのハルカス』の隣りのAITビル地下1階にある『酒蔵・男はつらい』に繰り込んだ。

2-1K2S_7554.jpg ここでは久し振りに大阪在住の同級生に会った勢いで、ぐっと張り込んで3500円の『飲み放題・食い放題』で行くことにした。ここでも合流した4人の同級生に手土産としてモンキーバナナ1房とカープビール1缶を手渡すことにした。

3-1K2S_7515.jpg 4-1DSC_0030.jpg 5-1DSC_0037.jpg

6-1DSC_0051.JPG 7-2DSC_0054.jpg

8-1DSC_0061.jpg 2時間の制限時間いっぱいに飲み喰いして、大阪の友人と別れて、7人は勇躍して環状線寺田駅近くの『ホテル1・2・3』へと向かった。ホテル代はシングルで一人一泊5400円である。
 勿論、10時までは一室に集まり一杯やりながらの反省会は欠かさない。

 明くる15日(水)はホテルを8時半に出発。『近鉄快速特急』に乗って、奈良県の秘境『吉野』へ向かった。

9-1DSC_0083.jpg

 昨日は終日雨模様であったが15日は霧雨程度の曇り空。充分に傘なしで歩ける。
 『吉野駅』よりケーブルカーに乗って、桜の名所『下千本』まで行き、そこから延々と『竹林院前』まで歩かなければ頂上まで行くバスは無い。
 『中千本』に辿り着いてもなかなか満開の桜の花びらにはお目にかかれない。

10-1DSC_0087.jpg どうやら、ここ吉野でも今年の春は例年より開花時期が早まり、最盛期はずっと雨模様でお花見日和は皆無であったという話である。
 延々と続くお土産物店や、食堂や、旅館街の急峻な坂道をのんびりゆったり登って行って、『上千本』に着いても、桜の花びらは風に乗って、どこかに運び去られたようであった。
 残るは『奥千本』だけと老体に鞭打って、どうにかこうにか『竹林院』まで辿り着いて、ここからバスに乗って、奥千本を目指すことにした。
 それぞれが600円出してバスの切符を買うことにした。「切符売り場からバス停まで400メートルある」というので、そこまで歩いて行くと乗客の行列は途中で50人くらいに区切られていて、更に上まで歩いて次の行列に加わらなければならないというシステムになっている。3回並ばされて、漸くバス乗り場に着くと、25人乗りくらいの小型のマイクロバスが数台ピストン輸送している。
 バスの混み具合をつづら折れの道で目隠しして、乗客に見えないように細工をしている完全な詐欺商法である。
 「騙された!」と言いながらも、善男善女の乗客たちはここまで登って来るのに充分に歩き疲れているので、ただへらへら笑って、成り行きに身を任せるしか身の処しようがない。
 奥千本からバスで下ってくる観光客は、素直に並んでいる乗客を見下すように「雨は降ってくるし、霧でかすんでいるし、奥千本もダメダメ」とつぶやきつつ、ニヤニヤしながら下って行く。
 新たな乗客は既に切符を買い、延々と並んだ後であるから、引き返す気力も失われている。ここは『奥千本』を極めるしかない。
 漸く乗り込んだバスの中で、とてもじゃないが足元の悪い山道を歩いては登れないことを認識させるつづら折りの狭いアスファルトの道路をマイクロバスは左右に揺れながら登って行くのであった。
 バスの終点に着くとさらに急峻な石畳の坂道が前を阻んでいる。7人の修道生はこの坂を登り切ると『奥千本』の桜並木が待っていると希望を抱きつつ重い足を引きずるようにして、上へ上へと登って行くのであった。坂の上では多くの観光客が休憩小屋に屯していて、「もうこれ以上は1歩も動かないぞ」という目つきで長椅子に屯している。
 ここは標高700メートルということである。我々老人もここで遂に力尽きた。心を一つにして小便をし、登ってきた坂を下ることにした。
『奥千本』では桜の老木が切り倒され、若木ばかりが咲き誇ってはいるもののいかんせん迫力に欠けること甚だしい。「まあ、運が悪かった」と諦めるしかない。

11-1K2S_7541.jpg 桜と言うものは儚いもので、春の雨にも春の風にも翻弄されて、見頃と言うのは一瞬である。それが故に愛されるのかもしれない。
頂上付近はかなり強い風が吹いていて、体温を奪う。それでも、チョットだけ薄い新鮮な空気を肺一杯に吸い込み、遠く見晴らせる山並みを遠望し、充分に満足した。最早一歩も歩く気力の無い修学旅行生は帰りもバスに乗ることに衆議一決した。

12-1DSC_0089.JPG 13-1DSC_0094.JPG

 『竹林院前』で、我々と同じように延々と並んでバスを待っている観光客に「奥千本もほとんど桜の時期は終わっているし、寒いし、登っても無駄だと思うがなあー」と聞こえるか聞こえないような声で互いにささやいて意地悪をする。悔し紛れに、皮肉れ爺さんに堕しているのが実に情けない。
 下りは幾分楽なので、気分は上々。『西澤屋』というこじゃれたお食事処に腰を落ち着けて、1人前1050円のそば、あるいは、うどん定食を注文する。
 吉野で『柿の葉寿司』を食すというのが当初の予定になっていた。柿の葉寿司が2個付いて出て、デザートに葛羊羹もついて出て来るという筋書き通りの顛末で、実に申し分ないとこぞって大満足。

14-1K2S_7551.jpg 15-1DSC_0101.JPG

 下りはケーブルカーを使わず、薄日の射しはじめただんだら坂を名残の桜を眺めながら、楽しい遠足気分で吉野駅まで歩き収めた。

16-1DSC_0107.JPG17-1DSC_0110.JPG 帰りは『新快速』に乗車して、一路大阪阿倍野駅から環状線に乗り換えてJR天王寺駅を目指した。大阪名物新世界の『串カツ屋』が今夜の宴会の場なのである。
 水曜日ということもあり、サラリーマンの姿もチラホラ。『ピリケン』の大型フィギアが鎮座している串カツ屋が『通天閣』までヅウーッと軒を連ねている。
 通天閣の下で会計を任されている修道生が遂に愛想を振りまく、引き込みの姉ちゃんにキャッチされ18-1DSC_0115.JPGてしまった。1500円の割引券に目がくらんだのである。全員ふらふらと若い姉ちゃんに誘導されて『串かつ・いっとく』に入って行く羽目になった。広い店内には会社員風の男女4人の先客がいるだけで、ほとんど貸切状態。
 まずはジョッキで生ビール6杯とウーロン茶を1杯注文し、乾杯をして、名代の串カツに挑戦することにした。

19-1DSC_0117.JPG 20-1DSC_0128.JPG

 取り敢えず、『本日の串カツ・20本セット』を注文して、後はお好みをそれぞれが注文する。いか、たこ、レンコン、ししとう、山芋、にんにく、なすび、じゃがいも、玉ねぎ、ねぎまぐろ、鶏もも、ささみ、ししゃも、いわし、かぼちゃ、えび、きす、ミニトマトとテーブルの上は正に戦国乱世。
 すべて串カツであるから、これが喰って見なければ、中身がなにか判らない仕掛けになっている。ついつい余分に注文をしてしまう。
 結局、お一人様10本平均の串カツを胃に収めて、漸く、満足した次第であります。
 生ビール以外には黒霧島、白波、知心剣の酎ハイと赤ワインを注文して、さて、本日のお勘定はと言うと、1500円の割引券を有効に使って、お一人様占めて2200円弱という大盤振る舞い。
 JR環状線で寺田駅に帰って、今夜の反省会のために『たこ焼き』を1パック購入して、一部屋に集まった。

 明くる16日(木)は関西最後の日である。まずは京都駅までJR新快速に乗って、本日のターゲットである『醍醐寺』に向かった。
 大学時代に4年間京都で暮らした生徒が7人の中に2人もいるにもかかわらず、京都駅で醍醐寺行のバスを探してもなかなか見つからない。それほど京都駅の周辺は昔と様変わりしていたのである。
 結局、バスは時間帯が悪いということで、地下鉄を利用して、穴の中を延々と走り回ることになった。
 地下鉄東西線の醍醐駅で下車して、真新しい新興団地の坂道を連日テクテク歩く羽目になった。幸い本日はお日和も良く、団地の中の坂道の両サイドは八重の桜が満々と咲き誇っている。
 団地を登り切ると醍醐寺の総門が目に飛び込んで来る。その総門を抜けると目に鮮やかな唐門が左手に見える。この奥が『三宝院』である。広大な醍醐寺の敷地を更に進むと『西大門』にぶち当たる。ここから奥に進むには一人600円のお布施が入用である。
 幸いにも仲間内に一人すこぶる元気な障害者がいるので、付き添いを含めて2人分はタダになる。
 紅白の桐の葉文様の幔幕が張り巡らされた参道を進むと国宝の『金堂』が目の前に迫って来る。道路の反対側には同じく国宝の『五重塔』がいかめしく屹立している。さすがに国宝だけあってその重厚感は圧倒的である。

21-1DSC_0134.JPG 22-1K2S_7565.jpg

23-1K2S_7566.jpg さらに境内の奥に足を進めて行くと、まるで置物のような陸亀が甲羅干ししている興趣のある池があり、朱の太鼓橋を渡るとそこは『弁天堂』である。その太鼓橋の手前に『阿闍梨寮・寿庵』というこていな料亭があり、湯葉料理を食すことができる。
 今回の旅行ではここで湯葉飯を食すことがスケジュールに組み込まれていたので、ここでゆったり昼食を摂ることにする。
24-1DSC_0146.jpg

 朝の食事をいささか摂り過ぎていた私は『宇治アイスみつまめ』と雅なメニューを選択し、他の6人はスケジュール通りに『湯葉粥付き蕎麦天麩羅定食』に挑戦した。6人は無謀にもその定食を一片も残さず完食した。年の割には実に見事な食べっぷりである。

25-1DSC_0141.jpg 26-1DSC_0142.JPG

 帰りがけに『清瀧宮』本殿周りの有名な2本の枝垂桜の大木を見て帰ることにした。
 残念ながら、この時期には一片の桜の花びらも残っていなかった。今年の花の最盛期には雨にたたられて、ここ醍醐寺も散々な花見であったそうである。足元の悪い観光客のために樹の周りには大量の茣蓙が泥にまみれになって敷き詰められていた。
 再び地下鉄に乗って、JR山科駅に向かった。その山科駅で奇蹟に遭遇した。我々6人が土産の『赤福』を購入するために京都駅に向かって、山科駅の階段を登って、京都行のホームにたどり着いた時、大津に帰ろうとして対向車両に乗っていた近畿地方で会うことのできなかった最後の1人の同級生が階段を駆け昇ってきて、突然我々の目の前に姿を現したのである。

27-1DSC_0151.JPG  一瞬、我々7人は彼が現れたことが信じられなく、しばらくはただ唖然と彼を見つめているだけで、言葉も出て来なかった。
 彼にも我々の京阪神の旅のスケジュールは郵送していたから、我々がその日に京都に滞在していることは周知のことではあった。
 彼からは「この期日は他用があって、会えない」由の連絡が入っていた。14日(火)には、彼は「午後1時より、『繁昌亭』の前で我々が到着するのを30分間だけ待っていた」そうである。ところが、広島組の我々6人は伊丹空港でもう一人の旧友に再会し、天神橋2丁目に到着しても繁昌亭に繰り込む前に腹ごしらえにとカレーライス屋に飛び込んだりして、午後の2時頃に『繁昌亭』に入場しているので、その場では、彼とはすれ違いになっている。
 それが偶然にもこうして彼と山科の駅で会えるとは奇跡としか思えない。それも反対車線に辿り着いた我々を対向車線の列車の中で見かけて、飛び下りて、急いで京都行のホームまで駆けつけたというのであるから、全く信じられない邂逅となった。おまけに京都行の電車が3分遅れていたがために、こうして彼と会えるという幸運に巡り合えたのである。このシーンを繰り返し、しつこく書くことになるが、それほど我々の上にこの瞬間神が宿ったのである。
 駅のホームでのわずか5分余りの再会を果たして、彼はなにを思ったのか、財布から1万円札抜き出して「これをガソリン代にでもしてくれ」と私の手に握らせた。
 「これは受け取るわけにはいかない」と強く拒んでも「いいからいいから」と受け取ろうとしない。他の6人はもう京都行の電車に乗り込んでいる。
私は会計担当者に1万円札をひらひらさせて提示し、「これ、彼からの餞別!」と叫んだ。「それは受け取れんじゃろう」と言いながらもにんまり笑って、彼の手は伸びて来ていた。
 あっという間に慈悲深い友の姿はホームの向こうに消えて行った。さぞかし、勢いで手渡した1万円札であっただろうが、「きっと後で、彼は後悔しているに違いない」と皆で話して頷き合った。
 私がどうしても『赤福』を土産に買って帰るというので、京都駅に一旦下りて、改めて大阪に向かうことに衆議一決した。なぜならば、お土産は最後の最後にしなければ途中ずうーと持って歩かねばならないし、私には常に総量7Kg余りのカメラ機材という負担がかかっている。そもそも『赤福』は日持ちがしないあんころ餅である。賞味期限がたった3日しかない。なるべく遅く購入する必要があった。
 幸い、鳥取市に帰る同級生が帰りは京都からバスに乗るというので、一旦2人して京都駅の改札口から外に出て『赤福』を売っている店を探索するという筋書きを練った。
 見事に『赤福』を買い当てて、意気揚々と5人が待っている改札口の中に引き返して、6人は一躍大阪に向かった。
 JR環状線に乗り換えて、ワゴン車を駐車している寺田町まで行き、一躍6人は広島に進路を執った。時刻は16日(木)の午後3時を回っていた。予定より1時間遅れである。
 運転手が2人で交互に運転して、ドライブインに寄って土産を漁りながら、仲良く『連れション』して友情を確認しながら、夕なずむ中国自動車道をブッ飛ばした。なにも苦労をして買い物をすることも無いもので、ドライブインでは『赤福』だろうが何だろうがたいていの土産物は売っている。それに『赤福!』とドライブインの入り口には大きな赤い暖簾が垂れ下がっている。
 東広島の高屋町と八本松に2人の旅人を送りつけて、広島市に滑り込んだのはとっぷり日の暮れた午後の8時を廻っていた。
 今回の1人頭の旅行費用は33500円也。内ガソリン代9800円。高速料金8160円。合計しても広島―大阪間の往復料金は1人頭3000円弱。今回は観光シーズン真っ盛りの交通渋滞を危ぶんで、大阪―奈良―京都間は殆ど公共交通機関を利用しているので、多少出費が嵩んだが、それでも格安の旅行が楽しめたと思います。それぞれがお土産を5000円前後買ってはいますが、これは別勘定と考えましょう。
 なにはともあれ、適当にハードな運動を強いられ、少しは疲れが残りましたが、高速道路を逆走することも無く、全員無事に我が家に帰還いたしました。
この度のプチ修学旅行では高校時代の5分の1もこなすことは出来ませんでした。しかし、春のこの時期にしてはまあまあのお天気にも恵まれ、予定のグルメのコースは全てクリアーし、何よりも関西在住の中学時のすべての同級生に巡り合えたことが何よりもの大ヒットでありました。
 この次の『第10回プチ修学旅行』は秋の京都に絞って、『紅葉狩り』と洒落込もうと目論んでいます。
 読者の皆様長い間のお付き合いありがとうございました。これで今回は終わります!

         ―――『プチ修学旅行』実行委員会編―――